【ネタバレあり】ラストオブアス2のストーリーと評価 アビーが嫌われる理由を考察
この感想には物語の核心に触れるネタバレが含まれます。ご注意ください。
苦しい・・・。苦しい・・・。
ゲームを進めるたびにSAN値が削られる・・・。
ラストオブアス無印をプレイしてから約7年。
ラストオブアス2はとんでもないゲームだった。
神ゲーだとか、クソゲーだとかそんな気持ちは湧いてこない。
プレイ中はネタバレを完全にシャットダウンするべく、ネット断ちをした。
結果的にゲームに対して先入観を持つことなく、正直な気持ちでこのゲームと向き合えた。
クリアした後、レビューが荒れていると言うことを知って悲しくなった。
悲しくなったと言う気持ちが正直な気持ち。
別にアマゾンに低評価を書いている人に対して何かを思うとかはない。
ラストオブアスに話を戻すと。
ラストオブアス無印発売当時の衝撃は今でもよく覚えている。
ゾンビゲームと言うと国内ではバイオハザードとかが代表格で、海外のFPSでもゾンビを的にしたゲームは数多くあった。
むしろ市場にゾンビゲームがありすぎて飽き飽きしているという雰囲気だったと思う。
ラストオブアスも発売されたときは、よくあるゾンビゲームの一つだと思っていた。
でもゲームを初めて10分でその考えは消え去ったのを覚えている。
セラを撃たれたジョエルの悲しみがストレートに伝わってくる。
とんてもない迫力のあるオープニングを見せられて、直感的にただゾンビを撃ち殺して楽しむように作られたそんなゲームではないと言うことが感じられた。
悲しみにくれるジョエルを見て、一気にゲームの中に引き込まれ、気がつくとその世界が本当にあるのではないかと思えるくらい感情移入していた。
冬虫夏草のようなウイルスが人間に寄生する世界。
ゾンビの設定としてはありがちだが、エリーという存在がそのゲームの雰囲気を他のものとは違う異質なものに変えていた。
エリーはどこにでもいる女の子で、ゲームの主役としてはかなり珍しいタイプだ。
ジョエルも娘を失った過去からか、エリーとうまくコミュニケーションが取れない。不器用すぎるほど不器用なおっさん。
こんなデコボココンビだが、だからこそリアリティーがある。愛しさも感じるのだと思う。
物語の結末、ジョエルは「エリー」と「世界」を天秤にかけて、最終的にエリーを選ぶ。
世界を救わず、一人の女の子を選択した。この選択に正解はない。ただ、物凄いモヤモヤが心に残った。
本当にこの選択が正しかったのだろうか。ジョエルはエリーに嘘はないと「誓い」、エリーは「わかった」と言った。この決断が何を意味するのか、何を引き起こすのか。その答えをラストオブアス2に見たかった。
レビューに蔓延する低評価について思うこと
まずラストオブアス2について私は文句なしの神ゲーだと思っている。
理由は簡単。
それはこのゲームをプレイしてみて、心動かされたからだ。
言い換えれば感動になる。しかしお涙頂戴の展開やチープなセリフからくる感動ではない。
それよりももっと大きな衝撃が確かに伝わってきた。
クリアするまで、ここまで苦しんだゲームは他にない。
唯一無二だ。
こんな痛みにも似たモヤモヤと、素晴らしいゲーム体験をありがとうと開発者サイドに言いたいと思っている。
いざゲームを終えてから、ネットに上がっている評価やレビューを読んで驚いた。
低評価や怒りにも似た感想文が雨霰のように投稿されていたからだ。
そしてその内容があまりにも稚拙で自分勝手なものばかりだという印象を感じる。
昨今の社会の空気として、他の人の意見を尊重し、受け入れようというものを感じている。
私自身その考え方には大賛成だ。
人の考え方は100人いれば100通りあるもので、それに対してリスペクトを持つことを諦めてはならない。
しかし、今回ネットに溢れるレビューの内容はなんだろう・・・。
「ジョエルはこんなことじゃ死なない」、「開発者は前作のことが嫌いなのか」「前作とテーマが違いすぎている」「ストーリーはこう見せた方がもっとよくなった」などなど、そんな意見ばっかりだ。
声を大にしていいたいのだが、「そんなことで低評価つけるなよ」と。
自分の思い描いたラストオブアスじゃなかった?当たり前だろお前が作ったんじゃないんだから!
アビー編をジョエルの死の前にやった方が良かった?開発者がそのパターンを考えなかったとでも思っているのか?
前作のことを開発者が嫌っている?んな訳ねーだろ、何年かけて一つのゲームと向き合ってると思ってるんだ??
あまりにもレビューを書いている人間の思考が、餌をもらう雛鳥目線すぎて驚いている。
そういうことを書いた方がPVや視聴者数を稼げると考えて計算しているのかもしれないが、それはそれで吐き気がする。
もうちょっと自分の頭でこのゲームと向き合い、考えて考え抜いた上で、感想を書いてもいいのではないかと思った。
下に感想を少し書いているが、これは自分の考えていることを少しまとめたものであり、駄文だと思っている。
ラストオブアス2の感想を文章や言葉に表すのは不可能だと考えている。
実際にコントローラーを握り、ゲームをプレイした人ならわかってくれると思う。
それほどまでにプレイヤーの心へ訴えかけるエネルギーが、このゲームにはあった。
それだけ書いておきたいと思う。
ジョエルの死について
ラストオブアス2の感想を書くにあたり、これはどうしても外せないので最初に書くことにする。
ジョエルが足をショットガンで撃たれた時は驚いた。
「は?は?」と声を出し、状況が飲み込めなかった。
トミーも頭を殴られ気絶をするし、助けたはずの女が何故裏切るのかということで頭がクラクラした。
この時点で、なんとなく「ジョエルが死ぬ」ということを意識し始めたように思う。
でも発売前のPVではエリーとジョエルが一緒に旅をするかのような映像があったため、「ジョエルは死ぬが、ここでは死なないはず」という疑念もあった。
ジェエルは謎の女にゴルフクラブでボコボコにされる間、プレイヤーはおそらく前作でのジョエルとエリーの旅のことを思い出していたのではないだろうか。
前作ではジョエルとエリーをどちらも操作する。つまりプレイヤーはジョエルでもあり、エリーでもあった。
だから自分が殺されるかのような感覚と、父親を殺される感覚を同時に味わうような気持ちがして、この時点で画面から目を背けた人もいるのではないだろうか。
他の人の感想やアマゾンのレビューには「ジョエルがあんなところで死ぬはずない」、「ジョエルは簡単に自分の名前を言わない」、「ジョエルはあんな簡単に人を信用したりしない」「死ぬならもっと感動的に死なさせて上げて欲しい」などなどの意見が見られた。
ちなみにこう言った意見に対しては開発者、ジョエル役、エリー役の人が回答を書いている。
まず本来ジョエルは死の間際、セリフが用意されていたという。
それは、ジョエルがアビーにとどめを刺される間際、「セラ・・・」と呟くということだったようだ。
何故このセリフがなくなったのかというと、ジョエル役のトロイベイカーさんの意見だ。
トロイベイカーさんは以下のように語っていた。
「ジョエルの頭を過ぎったのは、“これは俺が油断した結果だ。人を信用することを許してしまった。人を愛することを許してしまった。感情を抱くことを許してしまった。安全だと思うことを許してしまった。その結果がこれだ” という後悔の念です。ただ、そう思いながらも、 “もう一度チャンスがあっても、同じことをするさ。許した結果、あの子と一緒になれたのだから” と。あのシーンでジョエルは何も言いません。ただ見つめるだけです。うまく伝えられなかったとしたら私のせいですが、あの瞬間は間違いなくジョエルに捧げたものです」
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200626-128812/
これを聞いて、モヤモヤしていたジョエルの死について納得が言った。
他の方の感想にある、「ジョエルはこんなことで死なない」という意見は全くまとを得ていないトンチンカンなものだ。
我々が知っているジョエルはあくまで5年前のジョエルであり、その時のジョエルを元に彼の行動を考える事は間違っていると思った。
ファイアフライの病院からエリーを救ってから、ジョエルはジャクソンの街で多くの人と交流を持つようになり、丸くなっていった。
1の時にあった狂気のようなものは、この5年で薄くなっていったのだろう。
それはジョエルが見知らぬ商人からコーヒーを大金で買っていたことからもわかる。
以前のジョエルであれば、恐喝めいた値引き交渉をしていたはずだ。
そう言ったことはせず、平和的に、物事を解決する癖がついていったのだろう。
丸くなっていって多くの人から信頼を得ていた。
それはジョエルが死んでしまった後、家の周りに多くの花々が供えられていたことからもわかる。
死の間際、ジョエルは丸くなったことを後悔し、死んでいった。
だから死ぬ直後にはサラやエリーのことを少しは考えていたかもしれないが、それよりも後悔の念が強い。
だから最後に「サラ」や「エリー」と言うのはおかしいということだろう。
リアリティーのある人間的な判断だと思った。
確かにラストオブアスのファンであるなら、最後にエリーへ一声かけてジョエルが死んだ方が感動するかもしれない。でもそれはあまりに作られた感動だ。
そしてラストオブアスを実際に購入してやった人ならわかるが、そう言った理不尽をこのゲームは痛いほど表現している。
主人公とはいえジョエルだけ例外とはいかないだろう。
その姿勢を貫いた開発のかたに敬意を表したい。
以下はラストオブアス2のディレクターDruckmann氏の回答を引用する。
ジョエルとトミーはなぜアビーたちを信用したのか”という意見をよく目にするので言及しておきたいのですが、彼らは待ち伏せされていたわけではありません。(中略)ジョエルとトミーは、アビーたちを安全なジャクソンのコミュニティに連れていこうと考えていました。ジョエルはあのとき、みんながどんな人間なのか見極めようとしていたのです。彼が救ったばかりの、エリーと同年代の女性(アビー)が危険人物のはずがないと信じていたから。ジョエルとトミーに隙があったのは、そのためです。アビーたちが、ジャクソンで暮らしている人々のような、普通の人たちだったという点も影響しています。そしてジョエルもまた、ジャクソンで暮らしている普通の人間になっているのです
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200626-128812/
エリーは何故、最後にアビーを逃したのか
「エリーがアビーを過去のジョエルと重ねた」という意見が散見されますが、これは解釈として間違っていることが明らかになっている。
それはジョエルとエリーの最後の会話にヒントがあるというものだ。
エンディングの二人の会話。
エリーは「ジョエルを許すことができないが、それでも許そうと思っている」と言う。
これこそがアビーを逃した理由だとわかる。
つまりエリーはジョエルを許すという行為を、アビーを許すという形で成し遂げたのだ。
アビーを許すことで、自分の中にあるジョエルとのモヤモヤを払拭したのだった。
エリーがアビーにとどめを刺す直前、脳裏に浮かんだのは窓際でジョエルがギターを弾く場面。
もしもアビーとジョエルを重ねているのであれば、思い浮かばれるのはサラを抱くジョエルか、エリーを抱えるジョエルでなくてはならない。
しかし、エリーはどちらもそのシーンを見たことがない。
このアビーとジョエルを重ねていると思うのは、あまりにもプレイヤーの身勝手な解釈だと思う。
ジョエルを惨たらしく殺されたプレイヤーとしては、アビーを殺してやりたいという思いは、もちろんあった。
アビーを殺すエンディングも当然考えられていたという。
開発の途中までは、エリーが最後にアビーを殺すエンディングでいくつもりであったとも補足している。しかしながら、あの段階でアビーにトドメを刺すのはエリーらしくないとの判断により、結末が変更された。エリーの心の奥底には、善良さが残っているはずなのだから、と。
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200624-128490/
個人的にはアビーを殺したかった。
最後の殺す殺さない、この選択に答えはない。
アビーを逃すというエリーの選択に共感を覚える人や、アビーへの復讐心が止まらない人もいるだろう。
それでもエリーは殺さないことを選んだ。
これは前作でジョエルがエリーを助けることを選んだ時の状況に似ているのかもしれない。
アビーを殺すか殺さないか選べるようにしてくれという意見も他の方のレビューにあったが、これはあくまでエリーの物語だ。僕たちプレイヤーの物語ではない。
殺したいと思った人がアビーを殺せるようになっていたら、その人はそこで考えることをやめてしまう。
エリーのした選択を受け入れて前に進むことを考える。
そう考えた方が、よりプレイヤーが自分で物事を考えることに繋がるし、ラストオブアス2というものを楽しめるようになる気がしている。
エリーがギターを置いていった理由
ゲームのラストカット。
失った指が原因で、ギターをうまく弾くことができない。
もちろん指を失って、弾けなくなったからギターを置いていったという浅い演出ではない。
これはエリーがジョエルとの思い出や未練に、一つの決着をつけたということだろう。
または、ギターを置いていくことで、ジョエルへの思いをほんの少し忘れるということだと考えた。
これについても開発者の意図が明らかにされている。
物語の最後、エリーはジョエルからもらったギターを置いて、空き家となった農場を去る。アビー戦で2本の指を失い、ジョエルとの思い出を呼び覚ますギターを弾けなくなったわけだが、書き手としてはどのような意図が込めていたのだろうか。Gross氏としては、ギターを置いて去ることで、ジョエルへの思いを眠らせているのだという。ジョエルという概念を埋葬することで、人生の新たな一歩を踏み出しているのだと。Druckmann氏としては、エリーがようやく自身のエゴと執念を克服できたのだと解釈しているという。
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200624-128490/
解説で言われているように、エリーはPTSDにかかっていたようだ。
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)は、強烈なショック体験、強い精神的ストレスが、こころのダメージとなって、時間がたってからも、その経験に対して強い恐怖を感じるものです。 震災などの自然災害、火事、事故、暴力や犯罪被害などが原因になるといわれています。
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_ptsd.html#:~:text=PTSD%EF%BC%88Post%20Traumatic%20Stress%20Disorder,%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
ディーナとの幸せな生活の中でも、ジョエルが殺された時のことをフラッシュバックさせている。
描写はされていないが、エリーが無意識にディーナやJJに暴力をふるう可能性だってあったはずだ。
だからこそディーナはエリーから離れていった。
おそらくアビーとの決闘を終えた後、エリーはPTSDの症状は治りつつあるのではないかと考えている。
逆にそうでなくてはあまりにも救いがなさすぎる。
エンディングのジョエルとエリーの会話について
ジョエルとエリーの会話について、日本語だとわかりづらい箇所がある。
ジョエルがエリーに「ディーナのことが好きなのか」と聞くが、エリーはそれに対して「バカみたい」と答える。
この「バカみたい」には二つの解釈があり、ジョエルのことを指しているのか、エリーが自分のことを表現した言葉なのかということだ。
英語音声にした場合、このバカみたいに当たる主語は「I」だった。
つまりエリーは自分のことをバカみたいと言っていた。
このことからエリーは強烈な自己嫌悪に陥っていることがわかる。
ディーナと夜のパーティでダンスをしている時、「エリーがみんなの視線を釘付けにしている」というディーナに対して「それはない」とキッパリ答えていることからもわかる。
エリーは自分のことが嫌いで、自分に対して存在価値を見出せない。
だから、自分が世界を救えたかもしれないということを聞き、そのチャンスを奪ったジョエルを猛烈に批判していたと僕は考えている
一種の思春期にありがちな思考パターンのようにも思える。
思春期であれば、ジョエルを嫌悪して終わりだが、エリーはすでにそのジョエルを許す一歩手前まで人間的に成長していた。
もしもアビーがジャクソンを訪れるのが数ヶ月、数年遅ければ、エリーとジョエルの関係は修復されていたのではないかと思った。
だからこそ、このタイミングでジョエルの命を奪うという判断をした開発側にとんでもない恐怖を覚える。
ジョエルの死がプレイヤーのインパクトとして最大の威力を発揮するように計算されつくしたストーリーと脚本だ。
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