【微ネタバレ有】攻殻機動隊SAC2045シーズン1の感想と考察。「すべてがNになる」の意味とは・・・。
攻殻機動隊SAC2045のシーズン1を全て視聴しました。
テレビアニメシリーズ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(監督神山健治)が2002年に放送されて18年。
ついに神山健治監督による新作「攻殻機動隊」がNetflixで公開されました。
間にハリウッド映画やArisaを挟みましたが、これが正統なSACの続編です。
期待半分、怖さ半分という気持ちで視聴を開始したものの、結果的には一気に観終わってしまいました。
思うこともいろいろありましたので、ブログにレビューを残しておこうと思います。
ネタバレ注意です。
シーズン1を観終わっての正直な感想
すでにネットにはレビューがいくつか上げられていますが、私の感想としては、めちゃくちゃ面白かったです。
それは決して素子さんが出てくるからとか、トグサやバトー、荒巻課長やタチコマが出てくるからとかそういう理由ではありません。
ハリウッド版やArisaにはなかった攻殻らしさが脚本から感じられ、少しホラー感のある演出が光っていたと思います。
人によっては既視感というか、焼き直しのように思われるかもしれませんが、特にそういったことは感じませんでした。
もちろんSACや2ndGIGでこういう場面あったよなと思えるようにカットはありましたが、それは使い回しというわけではなく、素直にファンサービスとして受け取るようにしています。
不満だったところ
良かったところだけ上げていてもしょうがないので、まず不満だったところを上げていきます。
サイドストーリーのカタルシスが不足気味
まずキャラクターの表情について。
これは多くの人も感じていると思うのですが、キャラクターの表情や視線など、「顔の演技」が死んでいるように思いました。
草薙素子は全身擬態なので、あまり感情を出さない女性として認識している人も多いかと思います。プロモーションやキービジュアルでは無表情で映っていることが多いですね。
おそらくキャラクターの3DCG化による弊害の一つだと思っています。
モーションは凝っているのを感じるのですが、もう少しフェイシャルにも頑張って欲しいところです。
しかし、少佐ってアニメシリーズだと結構表情豊かだったりします。
少佐だけではありません、バトーさんもトグサもみんなSACや2ndGIGでは表情豊かなんです。
今までは少佐が話の最後にふっと口元をゆるめるシーンで、視聴者はカタルシスを得ることができました。
脚本や設定などはいいのですが、こうしたキャラクターの表情からカタルシスを得ることがSAC2045ではなかったように思います。
荒巻課長と再会した時や、トグサと再会した時も、キャラクターの顔がほとんど変わらないので、微妙は心境の変化を見ていても感じることができませんでした。
サイドストーリーではそのまま話が終わって、「面白かったけど、少し物足りない」という状態が続いていたように思います。
音楽プロデューサーが菅野よう子ではない
SACと2ndGIGの音楽は最高でした。
攻殻機動隊の世界観を表す重低音のきいたハードな音と、不協和音が混じり合った混沌とした音楽。
かと思えば美しいメロディと打ち込みを用いたエレクトロニックな音楽で近未来を連想させる演出。
攻殻機動隊の魅力の一つとして、菅野よう子が大きく関わっているのは間違いありません。
しかしSAC2045の音楽は菅野よう子ではありません。
見始める前の不安要素の一つがそれでした。
では実際にアニメを見てどう感じたかというと、菅野よう子の音楽の焼き直し感が凄かったです。
制作側もかなり気を使っている印象を受けました。
なんとか菅野よう子の音を再現しているように思えて仕方なかったです。
しかしSACや2ndGIGの時のように劇中曲で頭に残っている曲はほとんどありませんでした。
2ndGIGのオープニング曲「rise」や劇中曲「Cyberbird」など。
頭に残る名曲はSAC2045内では感じられませんでした。
それ自体は残念でしたが、物語全体の雰囲気を盛り上げるという役割は全うしているので、あくまで高望み的な不満点です。
普通に楽しむ分には問題ないと思います。(でも菅野よう子にやって欲しかった)
良かった点
ラスト2話でのポストヒューマンに対する引きつけがうまかった
シーズン1のラスト2話。
ポストヒューマンのタカシに関する話で一気に物語に引きつけられました。
タカシの前に三人のポストヒューマンを登場させていましたが、不気味さだけがフォーカスされていました。
感情はあるのか、何を考えて行動しているのかなどの情報がほとんどなく、感情移入できるような描かれ方をされていません。
しかしポストヒューマンのタカシは母親が描かれ、学校での辛い経験が描かれ、愛する人を失うという描かれ方がされました。
今まで不気味の象徴となっていたポストヒューマンとは少し変わったキャラクターとなっていて、存在感がめちゃくちゃありました。
少しSACの笑い男にも似たところがあるように思います。
あくまでシーズン1という立ち位置なので、シーズン2への興味を見終わった人に感じさせなければなりません。
そういった意味では成功していると思います。
早くシーズン2が見たくてたまりません。
シーズン1の最終話「すべてがNになる」の考察
シーズン1の最終話「すべてがNになる」について考察していきます。
まず「すべてがNになる」の元ネタは森博嗣の小説「すべてがFになる」です。
とても好きな小説だったので、引用されていて少し嬉しかったです。
「すべてがNになる」のNとは何か?
「すべてがFになる」のFには意味があります。
小説のネタバレになるため控えますが、そのまま「F」を使わずに、「N」に変えたということはNに意味があるはずです。
まず最初に思ったのは「ニュートラルのN」です。
つまり「すべてが中立になる」という意味になります。
NはAから数えても14番目、Zから数えても14番目に位置することから、「中立、真ん中」を意味する言葉としてよく用いられます。
では中立とは、この攻殻機動隊2045で何を意味するのか。
文字通り、攻殻機動隊SAC2045が折り返しに差し掛かったということではないかと思います。
SAC2045はシーズン2で終わる予定です。
そのため、この「すべてがNになる」がちょうどシーズン1、2を含めたすべてのエピソードの真ん中に位置します。
だからFからNに変更して、副題としたという説です。
森博嗣「すべてがFになる」の真賀田四季とポストヒューマンについて考察
少し発想を飛躍させてみます。
作品内で言及されている「1984」という本は非常に多くの作品で引用されています。
例えばメタルギアソリッドⅤなど、かなり1984に影響を受けたゲームです。
他にもアップルのスティーブ・ジョブスもmacのプロモーションに1984を引用したものを使用したりしています。
なので1984に関する考察はしません。今回は「すべてはFになる」と攻殻機動隊の関係性について考察したいと思います。
ポストヒューマンは人間がネットに繋がることで進化した存在と言われています。
簡単にいうとスーパーコンピューター並に人間の頭が進化してしまったと解釈しています。
「すべてがFになる」にもそれに近い存在が登場します。
真賀田四季です。
真賀田四季は天才プログラマーとして「すべてがFになる」で初登場するキャラクターです。
あまりの知能の持ち主であるからして、常人の感覚では彼女の行動は一見狂人の振る舞いのように見えてしまいます。
しかしその行動には深い思考と行動力があってこそ行われていることであることが、時間が経つにつれてわかってきます。
これって少しポストヒューマンに似ていると私は感じました。
今ポストヒューマンがやっていること、やろうとしていることは判明していません。
しかし核を打とうとしたり、人を殺して回ったりという行動の裏にはそれなりの理由があるはずです。
しかし常人がその思考に辿り着くのには時間がかかるのでしょう。
真賀田四季の行動の意味がわからなかったように。
ちなみに真賀田四季は「すべてがFになる」で大きな事件を起こした後も生き延びます。
もしも神山健治監督が真賀田四季をポストヒューマンを考える上で参考にしているのであれば、タカシもいろいろありつつ生き延びて、現代社会を隠れて見守り続ける存在にあるというエンディングも考えられるのではと思いました。
以上です。